祈りとともに~3.11を闘った看護師たちの記録。

生きるとは何か、人生とは何か。

祈りとともに~3.11を闘った看護師たちの記録。

この記録は訪問看護絆事業として立ち上がったときのもの。
これは、実際に東日本大震災のその日、街中で訪問看護に出ていた看護師さんたちの記録です。
ひとつひとつを刻み込むように読みました。複製禁止事項のため、記憶を頼りに残します。
ここに記録されていたのは、それは壮絶な記録の数々でした。

″ 地震がきたその時、寝たきりの方の訪問を終え、次の訪問先に向かっていた。
道中を戻りその方の元へ駆け付け、どう運ぶかを考えた。その方に関わっていた関係職種たちが駆け込んできた。
直後、あっという間に濁流に呑み込まれた。4名が流された。″

まさに、あの日あの場所で、自分の家族も失いながら闘ってきた人たちの記録です。

″ 訪問へ向かう道中、前方に信じられない光景が飛び込んできた。
街の中を濁流が押し寄せていた。
Uターンをしようとバックをしたらブロックに乗り上げ、車が動かなくなった。
車を乗り捨てて走って逃げた。
「津波が来てるから逃げて!!」
道端で立ち止まっている人たちに叫びながら走った。
轟音が後ろから迫ってきた。
「死ぬ」
そう覚悟した。
「掴まりなさい」大木に登った老夫婦が手を伸ばしてきた。
必死によじ登った。
体を濁流が呑み込んだ。″

” 訪問先に向かう車中で、地震に遭遇。
長かったので津波が来ると予想した。
訪問先に到着すると子供さんとお母さんがまだ家にいた。 
子供を車に乗せ、母親と先に避難させた。 
とっさの判断だった。 
利用者と一緒に遅れて避難所に向かった。”

” 訪問すると「私は大丈夫だから次の方の所に行ってあげなさい」
そう言われて、避難を促して次の訪問先に向かった。
安否確認に回ると、その方は柱にもたれた状態で亡くなっていた。”

この記録にはこのような事が書かれていた。
そして全国訪問看護連絡協議会から災害ナース派遣の絆事業が立ち上がる。
全国から集まった災害派遣ナースとして従事した訪問看護師たちの記録もあった。
スタッフを失った事業所の管理者さんの記録もあった。
遺体安置所を回り、そこでスタッフを見つけた後、事業所のスタッフで棺に入れ家族の元へ返したという記録もあった。
現地の人たちが立ち上がれるようになるには、
それ以上に支える力が必要なのだという事を、痛感する。

早いところは被災して3日後に再稼働。
パソコンもカルテも失われた状態で、仮の事務所を見つけて、
利用者の安否確認からスタート。

マンパワーと資材のストックがある病院とは違い、
在宅医療の問題点は、すべてが寸断されたなかで実施しなければならないということ。

人工呼吸器は外部電源が切れたらアンビュー(手動のもの)で対応しなくてはならないため、避難先に発電機が必要。
避難先に電動ベッドやエアマットが使える設備はないため、
医療依存度の高い利用者はロングショートや入院が必要。
ただ、災害時は搬送手段が寸断される。
そして災害時は救急要請が多発するため、対応不可であることを念頭に入れる必要がある。
各事業所での応急処置が必要になる。
褥瘡処置のフィルムやオムツ、滅菌ガーゼなどの消耗品はすぐに切れる。
支援がくるまでのその間の備品対応のストックと、
停電時の吸引機が使えない際の手動での方法は常日頃から対応できるようにしておく必要がある。

災害で亡くなる方に加えて、在宅の場合は上記の対応ができなかった場合の関連死。
在宅医療では災害時の対応の課題は山積みだ。

そして、この日は、
「災害が起きたとき、安否確認したら初動対応に出るから私は一緒にはおられんでね」
と家族に確認する日でもある。

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